通信大学用ブログ

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カテゴリ:世界史 > 12:主権国家体制


◆ロマノフ朝までの道のり
 ロシアの地の変遷。リューリクのノヴゴロド国(=ノルマン系)から、ウラディミル1世がギリシア正教に改宗したキエフ公国(=スラヴ系)へ。そしてモンゴル系のバトゥのキプチャク=ハン国になったのが、今ままでの流れであった。
 その後、再びスラヴ系の国が誕生する。イヴァン3世が1480年に自立させたモスクワ大公国である。かれは皇帝を意味するシーザー、カエサルのロシア語読みのツァーリを自称した。
 そのツァーリを正式なものにして、シベリアの地まで領土を広めたのが、雷帝イヴァン4世であった(位1533〜84)。コサックの首長イェルマークの協力でシベリアを領有した。モスクワの有名な聖ワシリイ大聖堂は、彼のカザン征服を記念して建てられた。
 その後ミハイル=ロマノフ(位1613〜45)がロマノフ朝をたて、以後日本が日露戦争で戦う王朝となった。
 1670年には、17世紀の危機の一つとも言える農民反乱、ステンカ=ラージンの反乱が起こった。これは百年後のプガチョフの乱まで民衆の記憶に残った。
◆暴れ出す東方の熊:ピョートル大帝(位1682〜1725)
  ステンカ=ラージンの反乱ののち、絶対王政の基礎を確立させ、歴史上の規格外ツァーリが在位する。大帝、ピョートル1世である。オランダの造船所に身分を隠してまで自らその技術を学ぼうとする2メートルを超えた大男は、西欧化政策を積極的に推し進めた。清と国境を接するようになったシベリアの経営では、皇帝康熙帝(こうきてい)とネルチンスク条約(1689)を結び、国境を画定した。南下政策ではオスマン帝国を圧迫し、黒海北部のアゾフ海に進出。さらにスウェーデン王カール12世との長い北方戦争(1700〜21)に勝利し、バルト海の覇権を握った。このバルト海に臨む地にペテルブルクが建設(1703)。のちに遷都され、ロシアの首都とされた(1712)。このペテルブルクは、「聖ペテロの街」を意味しており、すなわち新約聖書でイエスキリストの使徒であるペテロの名を由来とした、「ピョートル」大帝の街という二重の意味が込められている。

◆愛人200人の女:エカチェリーナ2世(位1762〜1796)
 ドイツから来たモテ女、エカチェリーナ2世は、夫のピョートル3世を毒殺までして皇帝に上り詰めた。オスマン帝国の勢力下にあったクリム=ハン国を滅ぼしクリミア半島を獲得。東方ではオホーツク海まで進出し、我が日本にもラクスマンを送った(1792)。彼女はフリードリヒ2世同様に、様々な才能を発揮した。フランスのヴォルテールと親交し、啓蒙専制君主として政治面でも手腕を発揮したが、前述した農民反乱、プガチョフの乱(1773〜75)によって業を煮やしたエカチェリーナ2世は、貴族と妥協をはかり、農奴制を強化。絶対主義を強化していくことになった。

◆消えた国、ポーランド
 大国の道を駆け上がるロシア。そして神聖ローマ帝国の仮死状態から抜け出したプロイセンとオーストリア。この3国にちょうど囲まれた、苦しい地理的条件の国がポーランドだった。16世紀後半にヤゲウォ朝が断絶すると、国力の衰退とともに、3国の干渉を免れなくなった。
 プロイセンのフリードリヒ2世オーストリアのヨーゼフ2世を誘い、さらにロシアのエカチェリーナ2世が加わって領土の分割が始まった。1772年の第一回ポーランド分割から、第二回(1793;露と普)、そして第三回(1795;露普墺)と侵略は続き、ついにポーランドは、世界地図から消えて無くなってしまった。第二回ポーランド分割の際には、アメリカ独立革命に参加した経験のあるコシューシコら義勇軍がそれに抵抗するも以後1世紀以上に渡って外国の支配下に置かれることとなった。(〜1919:ヴェルサイユ条約
 上記の3人:フリードリヒ2世、ヨーゼフ2世、エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主の代表としてクローズアップされることもあるが、テストに出しやすいだけで、ポーランド側の視点の方がよほど重要ではないか? 

<神聖ローマ帝国の死亡>1618〜1648

◆それまで:「アウクスブルクの和議(1555)」後
 カトリック教会の腐敗を根底に起こったルター派=プロテスタント勢力の拡大がきっかけで、神聖ローマの諸侯たちは、カトリックかプロテスタントかの信仰の自由を与えられた。これがアウクスブルクの和議であったが、領邦の民衆にその自由は与えられなかった。
 また、カール5世(カルロス1世)以降の神聖ローマ帝国では、皇帝の力が弱く、国内の統一が困難な状態だった。
◆発端:ベーメンの反乱
 ドイツ南東部のベーメン(ボヘミア)では、領主はカトリック信仰であったが、民主は新教徒であった。皇帝に自由を請願した民衆であったが、願いは聞き入れられず、その怒りの矛先を皇帝の使者に向けて、王宮の窓から突き落としてしまう。

◆経過:カトリックとプロテスタントの各国が激突
 ベーメンでの新教徒の反乱が火種となって、神聖ローマ帝国ではカトリックとプロテスタントの勢力が争う。力の弱い皇帝にそれを止める術がなかったため、皇帝側=カトリック側は同じハプスブルク家であったスペインに助けを乞うた。スペインからの独立戦争をしていたオランダは新教徒側につく。
 デンマークやスウェーデン、さらにはフランスも新教徒側につき、事態は泥沼化していった。『スウェーデンの国王グスタフ=アドルフスペインの傭兵隊長ヴァレンシュタインはライバルだった』とか、『フランスはもともとカトリック国であったが、宰相リシュリュー及びルイ13世は、ブルボン家の宿敵ハプスブルク家をぶっ倒すためプロテスタント側についた』とか、いや、最初から争うなよ・・・って感じだ。

◆結果:ウエストファリア条約(1648)、神聖ローマ帝国の有名無実化
 ウエストファリア条約で講和に至った三十年戦争は、アウクスブルクの和議を再確認するとともに、ルター派カルヴァン派といったプロテスタント諸派を公認し、スイス・オランダつまりハプスブルク家から独立をした諸国の、神聖ローマ帝国からの独立という結果で終わった。
 これは事実上の「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言える。




◆ルイ14世 (1638ー1715)

 ルイ14世が王になったのは、なんとなんと5歳。おっきくなるまでは、宰相マザランによる政治だった。「フロンドの乱(1648ー1653)」では、勝手に貴族が反乱を起こしてくれたので、それを鎮圧、王権を強化するいい口実になったわけだ。

◆「朕は国家なり」

 太陽王として絶対王政の最盛期を迎えたルイ14世フランス。ボシュエさんの王権神授説を提唱します。 
 財務総監にコルベールという優秀なブレーンを登用し、重商主義政策に邁進。東インド会社の再建、ヴェルサイユ宮殿の造営など、稼いでは金を使う。

 金の使い道は、当然戦争に。オランダなど、度重なる侵略戦争をするも、このルイ14世、戦争好きの戦争下手。
 
◆スペイン継承戦争(1701ー1714)
 ルイ14世は、フェリペ2世からしばらくして王家が途絶えたスペインのハプスブルク家に割り込むため、スペイン継承戦争をおっぱじめる。これはたくさんの国を巻き込んだ戦争になった。一応、孫をフェリペ5世として即位させます。スペインはブルボン家になったものの、国内は疲弊。そこにつけこんできたイギリスに、たくさん領土を取られてしまいます。スペインからも領土を奪ったイギリスは、事実上このスペイン継承戦争の勝者となります(ユトレヒト条約)。

◆財政難、ルイ15世(1710ー1774)へ

 戦後は宮廷の浪費もあって財政難に陥り、統治のためにナントの王令を廃止したら、稼ぎ頭であったユグノーたちは当然国外へ。ますます国内産業は衰退していきます。
 あとを継いだルイ15世は、7年戦争に介入したりしますが、国内の財政悪化と政治の乱れは止まらず、のちのルイ16世でフランス革命へと繋がっていくことになります。



フランス
◆ユグノー戦争
 
 ハプスブルク家とのイタリア戦争(1494ー1559)で出てきたフランソワ1世時代から続く王家はヴァロア朝(1328ー1589)。ユグノー戦争は、カトリック側の王家と、カルヴァン派のユグノー勢力が内乱状態になった内戦だ。
 シャルル9世はまだ10歳とガキンチョなので、母カトリーヌが摂政する。このカトリーヌはメディチ家出身。銀行から王家まで上り詰めた実力派の超名門家だ。
 カトリーヌは、騒ぐユグノー貴族たちを抹殺する。サンバルテルミの虐殺(1572年8月24日)という。

◆ブルボン朝(1589ー1792、1814ー1830
 
 泥沼化した内戦を治めるため、ユグノーの貴族の一人であり、かつ王家の血も引いていたアンリ4世がブルボン朝を創始する。「ナントの王令(1598)」を発布することによって、国内のユグノーに信仰の自由と市民権を与えた。その不公平にカトリックが暴れないように、アンリ4世自身は、カトリックに改宗することを決めた。
 アンリ4世は暗殺される。それによって即位したルイ13世は、シャルル9世と同じようにまだ子供、母や、宰相=首相リシュリューが政治を行った。リシュリューは、王権を強化して、貴族・平民・僧侶の意見を取り入れる制度である三部会を停止し、ユグノーや貴族たちの力を押さえ込んだ。
 ルイ13世自身は敬虔なカトリック信者だったが、ライバルのハプスブルク家に対抗するため、ドイツ=神聖ローマ帝国で起きた30年戦争に、プロテスタント側として介入することになった(1635)。

◆王政復古1660
専制政治を打破するために革命に参加したクロムウェルも、自分が統治者になったら、独裁をしてしまいます。
そこで、クロムウェル亡き後、イギリスはすぐに共和制から王政に戻ります。これを王政復古と言います。
スチュアート朝がまたも復活するのですが、招かれたチャールズ2世がまたも専制政治をしてしまいます。さらにカトリックの復活を画策したものですから、議会は猛反発。ジェームズ1世チャールズ1世時代は「国教会」、クロムウェル共和時代は「カルヴァン派(ピューリタン)」、そして次は「カトリック」なもんですからね。
議会は対抗策として、国教会信者だけが公職につける「審査法」と、国王による不当な逮捕を禁止する「人身保護法」を立法します。
そして、現代の政党政治の起源となる二大政党が誕生します。国王の権威を重視する「トーリ党」と議会の権利を重視する「ホイッグ党」です。
次のジェームズ2世もカトリック復活と専制政治を好んだため、いよいよ名誉革命へと繋がっていきます。

◆名誉革命1688〜9
名誉革命とは、上記のジェームズ2世をフランスに亡命させて、新しい王様を招いた事件です。これは大きな混乱や流血がなかったため、「名誉革命」と呼ばれています。
新しい王様とは、オランダのオラニエ公ウィレム3世です。彼を「ウィリアム3世」としてイギリスの王に迎え入れます。彼は、ジェームズ2世の長女メアリ2世の夫であり、この夫妻は、議会の提出した「権利の宣言」を承認、「権利の章典」として公布します。議会が、「法によって王や国民を統治する」という宣言を、「権利の章典」として正式に成文化したのですね。イギリスには一つの憲法典がまとまって存在していないのですが、憲法の一つとして、この「権利の章典」は残っています。
このような議会主権を、立憲王政、立憲君主制と言います。日本もそうです。
次のアン女王は、イングランドとスコットランドを統一して、ついに「大ブリテン王国」を成立させます。しかしアン女王は、エリザベス1世同様子どもがいませんでした。
◆王は君臨すれども統治せず
アン女王の後、スチュアート朝は途絶えてしまいますが、ジェームズ1世のひ孫のジョージ1世をドイツから招き入れます。ここからハノーヴァー朝の始まりです。ハノーヴァー朝は、今の王家であるウィンザー朝の直属の祖先にあたります。
ジョージさんは、ドイツ育ちです。どうなるか。はい、英語がだめなんですね。これじゃあ、もし専制政治をしたかったとしても、無理があります。国民は安心ですね。このことによって、それまでは国王に責任を追っていた内閣は、議会に目を向けるようになります。つまり「責任内閣制」が形成されます。時の首相はホイッグ党のウォルポールさん。
これはつまり、王の権力がほぼ有名無実化したことを意味しますが、政治制度としては、大変な安定をもたらします。
王は君臨すれども統治せず」とはまさにこのことです。でも実はこれ、16世紀のポーランドで生まれた言葉なんだけどね。

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