通信大学用ブログ

☆慶應大学通信教育課程 文学部。 ★主に学習過程について書いていきます。 ☆皆さんのお役にたてば幸いです。 ★その他の通信大学(高校)にお通いの方にもお役に立てれば幸いです。 ☆コメント質問歓迎しております。

☆コメント質問歓迎しております。
☆慶應大学通信教育課程 文学部。

カテゴリ:世界史 > 12:主権国家体制



いよいよピューリタン革命です。1640〜60年までの、クロムウェルが死去するまでの専制政から共和制を経て、再び王制になる一連の混乱をさします。
1640から始まる王党派と議会派の内戦は、初めは常備軍を要する王党派が優勢でしたが、議会派のクロムウェルがピューリタン中心の鉄騎隊を編成、これが議会派を勝利に導きます。とはいえ、議会派内部でも「王の存在は認めよう、つまり立憲王政でやっていこうじゃないか」という長老派と、「いや王はいらん、あくまで共和政で行くぞ」という独立派が対立します。当然クロムウェルは、独立派ですね。彼は武力でもって長老派を追放し、1649年、つにチャールズ1世を処刑します。ここに、イギリス史上最初で、そんでもって最後になる共和政が樹立します。

王のいない政治、共和政になったイギリスは、悲しいかな、クロムウェルの独裁になっていきます。せっかく王がいなくなったのにね。軍隊から人気のあった急進的主張をする水平派を弾圧したあと、今度は王党派の拠点であったアイルランドの先住民たち、ケルト人を征服します。土地を没収して、事実上の植民地として小作地とされます。
さらに、ビジネス上の宿敵であったオランダに痛手を食らわせます。航海法という港湾の使用権に関する法律を制定します。それまで、世界各地の港はイギリスがたくさんもっていたのですが、そこを利用する(中継貿易する)オランダががっぽがっぽと儲かるのは気にくわない。この航海法で、オランダ商船のイギリス港への出入りを禁止してしまうのです。そうしたら、はい、戦争になりますね(笑)イギリス=オランダ戦争(52〜54)です。これはイギリスが勝利して、それまで興隆していたオランダとの力関係が逆転していきます。

追記:この戦争後、1664年に北アメリカ東海岸にオランダが持っていた植民地ニューネーデルラントをイギリスが奪った。中心都市の名は、ニューアムステルダムから、『ニューヨーク』へと改名された。

さて、絶対王政を終わらせたピューリタン革命は、特権商人の独占権を廃止するなど、市民層の立場を強めた功績があります。自由な資本主義でいこうという感じですね。こういう自由を切り開いて行く変革はアメリカ独立革命やフランス革命にも通ずるものがあるのですが、もう目も当てられないほど残忍な過程を孕んでいます。フランス革命がそうであったように。
このピューリタン革命の主人公クロムウェルも、最初は王政を止めるために共和政にしたのに、結局独裁者になっていくのです。1653年、終身の護国卿となります。つまり、「俺は死ぬまでリーダーだ!」ってことです。これじゃあ、それまでの王政、専制政治と何も変わらない。国民の不満はますます高まっていきます。



イギリスの近世時代は、話がどんどん込み入ってきて、いわゆるヨーロッパの歴史の縮図になっている気がします。

薔薇戦争で混乱したイギリスをテューダー朝にまとめ上げたヘンリー7世でしたが、次男のヘンリー8性が盛大にやらかします。まず、最初の妻との離婚を目論見に、それまで離婚の許されていなかったカトリックを邪魔に思い首長法を発布して勝手に「イギリス国教会」を成立させてしまいます。この肉付けを丸投げされたのが息子のエドワード6世ですが、彼は15歳という若さで病死してしまったので、事実上はエドワードシーモアと言う母方の伯父が実権を握っていたとされています。このエドワード6世は、マークトウェインの『王子と乞食』と言う小説で主人公になっています。
エドワード6世の次は、メアリ1世。ブラッディメアリーですね。夫がフェリペ2世で、ガチガチのカトリックになってしまったものですから、プロテスタントなんかを血も涙もなく粛清します。

その次に現れたのが、エリザベス1世です。彼女は、自分の母を、父であるヘンリー8世に殺されているんですね。ひどい男です。なので、男嫌い。生涯独身を貫いたヴァージンクイーンとして有名で、植民地支配したアメリカの土地の名前は、のちにヴァージニアって名付けられます。
彼女は、父が勝手に作って混乱した国の宗教を、イギリス国教会に確立させ、ひとまず安定させます。さらに、異母姉のメアリー1世の夫であるフェリペ2世が率いていた当時世界最強のスペイン艦隊を、「アルマダ海戦」(1588)で破ります。海外に東インド会社を設立して、まさに興隆と言えるでしょう。
ビジネス面においても、イギリスは毛織物工業を発展させ、どんどん羊毛を増大。それに伴って、農民たちの土地を買い占める第一次囲い込み運動が活発になります。思想家トマスモアは、著書「ユートピア」の中で、ヘンリー8世時代の囲い込みについて揶揄しています。『羊が人を食っている』ってね。

追記:1588年4月5日はトマスホッブズ誕生日。

この時のイギリスは言わずもがな、絶対王政です。しかし、イギリスの王政の特徴として、地方の有力者、金持ちの「ジェントリ」と言う連中の協力無くして、行政は進まなかったそうです。

さて、ヴァージンクイーンのエリザベス1世ですが、決定的な問題を残したままこの世を去ります。子どもです。後継者のいなかったテューダー朝は断絶。変わって現れたのが、グレートブリテン島の北半分、スコットランドからの王家であるステュアート朝です。
ジェームズ1世は、スコットランドでもイギリスでも王さまです。王権神授説と言う、簡単に言えば「王は神に選ばれた存在、国民のことなど考えなくとも良い」と言う超絶理論を元に、国教会の強制します。これには当然カルヴァン派=ピューリタンの面々は不満を募らせます。カトリックはどうしたのかね。

追記:国教会の強制に不満を募らせたピューリタンの一団(ピルグリム=ファーザーズ)は、帆船メイフラワー号でアメリカに移住(1620)。彼らは、今のアメリカの北東の端っこ、ニューイングランド植民地の基礎を築いた。

次のチャールズ1世も、専制政治を行い国教会を強制。金持ちたちの議会はそれを危惧し、抵抗の姿勢を示します「権利の請願」(1628)という議会の同意なしに課税できない請願をチャールズ1世に出します。それにゲキ怒な王は議会を解散させてしまいます。
さらにフィルマーと言う学者のいう王権神授説をこれまた唱えたり、やりたい放題です。

さて、ブリテン島北のスコットランドでは、カルヴァン派であるプレスビテリアンが国教会への反乱を起こします。スコットランドの反乱1637)です。
チャールズ1世はこの反乱を鎮圧しようと戦費を探しますが、ない。そこで、解散させた議会をまた開催して、国民に課税をさせようと思ったのですが、さすがにこれは無理ゲーです。議員は反対し、再びすぐに解散(短期議会)。反省した(のか?)チャールズ1世は、先の短期議会の結果を踏まえ、とにかく牛歩戦術か何かわかりませんが、13年も長引かせる「長期議会」を開きます。しかし、これによって議会内は王党派議会派に分裂。結局内乱を発展させてしまうのでした。



 スペインとハプスブルク家の血を引くカルロス1世は、誰でも立候補可能な神聖ローマ帝国の選挙で勝ったので、スペイン国王カルロス1世&神聖ローマ皇帝カール5世と言う二つの称号を手にします。
 事実上スペインと神聖ローマに挟み撃ちになったフランスは、中東のオスマントルコに助けを求め、神聖ローマとのイタリア戦争をおっぱじめますが、スペインの全盛期がやってきます。

 カルロス1世の子フェリペ2世は、ヨーロッパキリスト諸国にとって脅威だったオスマン帝国に『レパントの海戦1571』で勝利します。この偉業によって無敵艦隊の名を称されたスペインは、調子付いて、フェリペ2世はポルトガルの王位を兼任し、トルデシリャス条約で決まっていたポルトガルのアジア利権=地球のもう半分をも支配し、「太陽の沈まぬ国」となります。
 ただこの栄光も、それほど長くは続きません。

 ガチガチのカトリックだったフェリペ2世はイギリスのメアリ1世と結婚してイギリスにカトリックを復活させますが、のちのエリザベス1世は1559年に統一法でイギリス国教会を確立させ、独自のカルヴァン主義路線になってゆきます。そして1588年、スペインの無敵艦隊とイギリスが激突します。『アマルダ海戦』です。ここで、イギリスがスペインを負かします。

 ちょっと遡ること、1581年。実はスペインの沈まぬ太陽は、ある小国の独立から陰りを見せていました。オランダです。時の首領はオラニエ公ウィレムと言う人です。オランダはもともとスペインの領地でしたが、ひどい重税に悩み、さらにカトリックのスペインに対して、オランダは商工業の発達したカルヴァン派、ゴイセンと呼ばれていました。ゴイセンとは、スペインで乞食を意味します。なぜ乞食かと言いますと、物資豊かなスペインに対して、オランダは商売好きな国とはいえ小粒。さらにユトレヒト同盟によってスペインから独立しようと企んでいたのは北部の7州のみで、南部の10州はスペインにとどまることを決めていました。南部はのちに、ベルギーとなるのですが。
 そんな貧しい独立派は、完全重装備で最新の武器を持ったスペイン兵に比して、桶を兜に漁猟用の銛(もり)を武器にして戦う始末です。ところが、スペイン軍を苦しめ休戦まで持ち込み、独立を達成してしまうんですね。
 もともとオランダの地形は、低地です。海よりも低いため、浸水などの被害にあった時は、あのハウステンボスにもある、水車で水を汲み取っていくんですね。そんな国。その地形を利用しようとした桶兜のユトレヒト兵は、知恵を絞って、スペイン軍を海岸線までおびき寄せます。自分たちは高い堤防に登って、あとは、ダムの原理と同じように、海の水を一気に放水したんですね。当然自分たちの街は水びたしですが、スペイン軍も一緒に流れてった。

 これがオランダ独立のハイライトになるのですが、このつまずきをきっかけに、スペインは衰亡していきます。一方のオランダはと言うと、17世紀前半に全盛期を迎えます。特に首都アムステルダムが繁栄するのですが、ダム作戦のおかげで栄えたオランダだからと言うわけではありませんが、アムステルダムは、「アムステル川」の「ダム」って意味なのね。
追記:このアムステルダムは、南部フランドルの北端アントウェルペンに変わって世界経済の中心となっていった。アントウェルペンは、中世以降、イギリスの毛織物製品の積出や大航海時代以降の新大陸からの銀、香辛料の集積によって、ポルトガルのリスボンと共に世界的な貿易港であったが、オランダ独立戦争に際して、アントウェルペンは1576年スペイン軍に略奪、85年には破壊され、商売好きなプロテスタントたちはアムステルダムに逃れていった。その後のアムステルダムは国際金融の中心地となった。



土地と軍役による主従関係だった封建社会は、臣下が二人の主君につくことができたり、臣下の臣下を統一的に支配することができなかったため、国境も曖昧な世界だった。
そこで、主に王が主権者となって、官僚と常備軍をその配下に置き、国民を統一的に支配する体制となった。これが主権国家の成立であり、絶対主義である。
今の日本は国民主権という主権国家体制だが、国民が戦争をしたいと言えば戦争できる国でもある。

絶対主義主権国家の王は、官僚と常備軍を維持するために、莫大な金が必要となった。そのため、資本家が労働者を雇用する工場制手工業(マニュファクチュア)を導入し、分業と協働をするようになった。また問屋制によって、金儲けをより効率的に行う社会になって行った。これを主に重商主義という。

<イタリア戦争1494〜1559>
特にヨーロッパ諸国がこぞって主権国家体制になっていくきっかけが、主に、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世(1519〜1556;1516~はスペイン国王カルロス1世として)との争いである、イタリア戦争だった。カール5世はこのような混乱(他にもオスマン帝国によるウィーン包囲など)が原因で、諸侯たちの反カトリック運動を沈めることに手が回らなかった。

フランス王家のヴァロアブルボンは、ハプスブルク家との対立が長く、このイタリア戦争も60年も続くことになった。イタリアに両国が侵入するこの争いは、カトー=カンブレジ条約(1559)によってフランスが折れる形で収束を迎えたが、あまりにも長い戦乱が土壌となって、ヨーロッパ諸国はより『他国との戦争に適した国づくり』を目指すようになり、主権国家体制が広がって行った。

各国は、一国の力が増大しないように、勢力均衡と言う主権国家体制の原理原則を貫いた。これは今日まで続く、外交の基本である。
—————————
勘弁してほしいぜヨーロッパ。もう、返す返すも言うようだが、どんだけ自作自演を繰り返せば済むのだ。続きを読む

このページのトップヘ