通信大学用ブログ

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カテゴリ: 世界史


〜三十年戦争後(1648)の神聖ローマ〜

◆プロイセンの成立とオーストリアのマリア=テレジア(1717ー1780)
 三十年戦争の惨禍を浴びることなく、その後大きな力をもつ国が二つドイツエルベ川以東にあった。その一つがハプスブルク家のオーストリアで、神聖ローマ帝国全土よりも、このオーストリアでの統治に専念しようと三十年戦争後集結した。中でも、マリア=テレジアは政治において手腕を発揮した。彼女は子沢山で、その一人にはあのマリーアントワネットがいる。ただ、彼女の即位がプロイセンとの問題を引き起こす火種となる。
 プロイセン公国は、ブランデンブルク選帝侯国と、ドイツ騎士団領が合併することで生まれた(1701)。ホーエンツォレルン家の国である。2代国王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(1688−1740)はその気性から軍隊王と呼ばれ、軍備の増強をして絶対王政の基礎を固めた。その子である、一見軟弱な王フリードリヒ2世が後を継ぐ。


◆天才フリードリヒ2世(1712ー1786)と啓蒙専制君主
 フリードリヒ2世は、学芸に秀でた才能を見せる一方で、剣術さえもいやいややりながら万人をなぎ倒す天才的な王であった。フルートの演奏を愛し、作曲でもあのバッハの舌を巻かすほどであった。フランスのヴォルテール(1694ー1778)と親交を深め、啓蒙思想に傾倒する。「君主は国家第一の僕」と言って、広く教養の必要性を訴えながらも、この『啓蒙専制君主』は、結局絶対主義王政の一つの形にすぎず、農奴解放や貴族(ユンカー)らの影響が強い非近代的政治を改革する、といった真の意味での改善には繋がらなかった。



◆二つの戦争
 オーストリアでのマリアテレジアの地位が高まるにつれて、プロイセンのフリードリヒ2世は懸念する。特に、鉄鉱石が豊富なシュレジエン地方の獲得を画策して、戦争を始める。オーストリア継承戦争(1740ー1748)。プロイセンはフランスとスペインと手を組み、オーストリアはイギリスと組んだ。
 復讐に燃えるオーストリア。ここでいわゆる外交革命が起きる。ハプスブルク家は、長くライバル同士であったフランスのブルボン家と同盟を組んだのだ。そうして始めた七年戦争(1754ー63、主な戦闘は56ー63)だったが、結局プロイセン(+イギリス)に負けてしまった。
 その後のオーストリアは、マリアテレジアの息子ヨーゼフ2世が啓蒙専制君主となって、宗教寛容政策や農奴解放などで近代化を推し進めたが、その中央集権的なやり方に宮廷内の保守派や領内異民族の反乱などによって多くが挫折した。

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フリードリヒ2世って塩野七生さんも本出しているのか。興味深い。のだが、このあたりから〇〇3世やら何やら名前が似てる連中が、しかも世代を超えて出てくるから頭こんがらがるわ。
ヨーゼフ2世って、官邸主導で既得権打破して、保守派やなぜかリベ(実は既得権層)から引きずりおろそうとされている安倍首相に似ている。








Flute Sonate No. 11 in D minor> ウィキの記述だとNo.111が有名とあるが、この11番の間違いではないか?



日本語資料が少ないので、調べるのに手惑いそうだ。

追記:フリードリヒ2世の『フルートと通奏低音のためのソナタ』は全部で121曲あるそうだ。半端じゃないな。そのうち出版されているのは25曲で、最近になって7曲収録されたらしい。
いみじくもここにアップされている。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLq9eXxMdik9q-KMJ-7WNVMFXlxqkG7Hwh


◆ロマノフ朝までの道のり
 ロシアの地の変遷。リューリクのノヴゴロド国(=ノルマン系)から、ウラディミル1世がギリシア正教に改宗したキエフ公国(=スラヴ系)へ。そしてモンゴル系のバトゥのキプチャク=ハン国になったのが、今ままでの流れであった。
 その後、再びスラヴ系の国が誕生する。イヴァン3世が1480年に自立させたモスクワ大公国である。かれは皇帝を意味するシーザー、カエサルのロシア語読みのツァーリを自称した。
 そのツァーリを正式なものにして、シベリアの地まで領土を広めたのが、雷帝イヴァン4世であった(位1533〜84)。コサックの首長イェルマークの協力でシベリアを領有した。モスクワの有名な聖ワシリイ大聖堂は、彼のカザン征服を記念して建てられた。
 その後ミハイル=ロマノフ(位1613〜45)がロマノフ朝をたて、以後日本が日露戦争で戦う王朝となった。
 1670年には、17世紀の危機の一つとも言える農民反乱、ステンカ=ラージンの反乱が起こった。これは百年後のプガチョフの乱まで民衆の記憶に残った。
◆暴れ出す東方の熊:ピョートル大帝(位1682〜1725)
  ステンカ=ラージンの反乱ののち、絶対王政の基礎を確立させ、歴史上の規格外ツァーリが在位する。大帝、ピョートル1世である。オランダの造船所に身分を隠してまで自らその技術を学ぼうとする2メートルを超えた大男は、西欧化政策を積極的に推し進めた。清と国境を接するようになったシベリアの経営では、皇帝康熙帝(こうきてい)とネルチンスク条約(1689)を結び、国境を画定した。南下政策ではオスマン帝国を圧迫し、黒海北部のアゾフ海に進出。さらにスウェーデン王カール12世との長い北方戦争(1700〜21)に勝利し、バルト海の覇権を握った。このバルト海に臨む地にペテルブルクが建設(1703)。のちに遷都され、ロシアの首都とされた(1712)。このペテルブルクは、「聖ペテロの街」を意味しており、すなわち新約聖書でイエスキリストの使徒であるペテロの名を由来とした、「ピョートル」大帝の街という二重の意味が込められている。

◆愛人200人の女:エカチェリーナ2世(位1762〜1796)
 ドイツから来たモテ女、エカチェリーナ2世は、夫のピョートル3世を毒殺までして皇帝に上り詰めた。オスマン帝国の勢力下にあったクリム=ハン国を滅ぼしクリミア半島を獲得。東方ではオホーツク海まで進出し、我が日本にもラクスマンを送った(1792)。彼女はフリードリヒ2世同様に、様々な才能を発揮した。フランスのヴォルテールと親交し、啓蒙専制君主として政治面でも手腕を発揮したが、前述した農民反乱、プガチョフの乱(1773〜75)によって業を煮やしたエカチェリーナ2世は、貴族と妥協をはかり、農奴制を強化。絶対主義を強化していくことになった。

◆消えた国、ポーランド
 大国の道を駆け上がるロシア。そして神聖ローマ帝国の仮死状態から抜け出したプロイセンとオーストリア。この3国にちょうど囲まれた、苦しい地理的条件の国がポーランドだった。16世紀後半にヤゲウォ朝が断絶すると、国力の衰退とともに、3国の干渉を免れなくなった。
 プロイセンのフリードリヒ2世オーストリアのヨーゼフ2世を誘い、さらにロシアのエカチェリーナ2世が加わって領土の分割が始まった。1772年の第一回ポーランド分割から、第二回(1793;露と普)、そして第三回(1795;露普墺)と侵略は続き、ついにポーランドは、世界地図から消えて無くなってしまった。第二回ポーランド分割の際には、アメリカ独立革命に参加した経験のあるコシューシコら義勇軍がそれに抵抗するも以後1世紀以上に渡って外国の支配下に置かれることとなった。(〜1919:ヴェルサイユ条約
 上記の3人:フリードリヒ2世、ヨーゼフ2世、エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主の代表としてクローズアップされることもあるが、テストに出しやすいだけで、ポーランド側の視点の方がよほど重要ではないか? 

<神聖ローマ帝国の死亡>1618〜1648

◆それまで:「アウクスブルクの和議(1555)」後
 カトリック教会の腐敗を根底に起こったルター派=プロテスタント勢力の拡大がきっかけで、神聖ローマの諸侯たちは、カトリックかプロテスタントかの信仰の自由を与えられた。これがアウクスブルクの和議であったが、領邦の民衆にその自由は与えられなかった。
 また、カール5世(カルロス1世)以降の神聖ローマ帝国では、皇帝の力が弱く、国内の統一が困難な状態だった。
◆発端:ベーメンの反乱
 ドイツ南東部のベーメン(ボヘミア)では、領主はカトリック信仰であったが、民主は新教徒であった。皇帝に自由を請願した民衆であったが、願いは聞き入れられず、その怒りの矛先を皇帝の使者に向けて、王宮の窓から突き落としてしまう。

◆経過:カトリックとプロテスタントの各国が激突
 ベーメンでの新教徒の反乱が火種となって、神聖ローマ帝国ではカトリックとプロテスタントの勢力が争う。力の弱い皇帝にそれを止める術がなかったため、皇帝側=カトリック側は同じハプスブルク家であったスペインに助けを乞うた。スペインからの独立戦争をしていたオランダは新教徒側につく。
 デンマークやスウェーデン、さらにはフランスも新教徒側につき、事態は泥沼化していった。『スウェーデンの国王グスタフ=アドルフスペインの傭兵隊長ヴァレンシュタインはライバルだった』とか、『フランスはもともとカトリック国であったが、宰相リシュリュー及びルイ13世は、ブルボン家の宿敵ハプスブルク家をぶっ倒すためプロテスタント側についた』とか、いや、最初から争うなよ・・・って感じだ。

◆結果:ウエストファリア条約(1648)、神聖ローマ帝国の有名無実化
 ウエストファリア条約で講和に至った三十年戦争は、アウクスブルクの和議を再確認するとともに、ルター派カルヴァン派といったプロテスタント諸派を公認し、スイス・オランダつまりハプスブルク家から独立をした諸国の、神聖ローマ帝国からの独立という結果で終わった。
 これは事実上の「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言える。




◆ルイ14世 (1638ー1715)

 ルイ14世が王になったのは、なんとなんと5歳。おっきくなるまでは、宰相マザランによる政治だった。「フロンドの乱(1648ー1653)」では、勝手に貴族が反乱を起こしてくれたので、それを鎮圧、王権を強化するいい口実になったわけだ。

◆「朕は国家なり」

 太陽王として絶対王政の最盛期を迎えたルイ14世フランス。ボシュエさんの王権神授説を提唱します。 
 財務総監にコルベールという優秀なブレーンを登用し、重商主義政策に邁進。東インド会社の再建、ヴェルサイユ宮殿の造営など、稼いでは金を使う。

 金の使い道は、当然戦争に。オランダなど、度重なる侵略戦争をするも、このルイ14世、戦争好きの戦争下手。
 
◆スペイン継承戦争(1701ー1714)
 ルイ14世は、フェリペ2世からしばらくして王家が途絶えたスペインのハプスブルク家に割り込むため、スペイン継承戦争をおっぱじめる。これはたくさんの国を巻き込んだ戦争になった。一応、孫をフェリペ5世として即位させます。スペインはブルボン家になったものの、国内は疲弊。そこにつけこんできたイギリスに、たくさん領土を取られてしまいます。スペインからも領土を奪ったイギリスは、事実上このスペイン継承戦争の勝者となります(ユトレヒト条約)。

◆財政難、ルイ15世(1710ー1774)へ

 戦後は宮廷の浪費もあって財政難に陥り、統治のためにナントの王令を廃止したら、稼ぎ頭であったユグノーたちは当然国外へ。ますます国内産業は衰退していきます。
 あとを継いだルイ15世は、7年戦争に介入したりしますが、国内の財政悪化と政治の乱れは止まらず、のちのルイ16世でフランス革命へと繋がっていくことになります。



フランス
◆ユグノー戦争
 
 ハプスブルク家とのイタリア戦争(1494ー1559)で出てきたフランソワ1世時代から続く王家はヴァロア朝(1328ー1589)。ユグノー戦争は、カトリック側の王家と、カルヴァン派のユグノー勢力が内乱状態になった内戦だ。
 シャルル9世はまだ10歳とガキンチョなので、母カトリーヌが摂政する。このカトリーヌはメディチ家出身。銀行から王家まで上り詰めた実力派の超名門家だ。
 カトリーヌは、騒ぐユグノー貴族たちを抹殺する。サンバルテルミの虐殺(1572年8月24日)という。

◆ブルボン朝(1589ー1792、1814ー1830
 
 泥沼化した内戦を治めるため、ユグノーの貴族の一人であり、かつ王家の血も引いていたアンリ4世がブルボン朝を創始する。「ナントの王令(1598)」を発布することによって、国内のユグノーに信仰の自由と市民権を与えた。その不公平にカトリックが暴れないように、アンリ4世自身は、カトリックに改宗することを決めた。
 アンリ4世は暗殺される。それによって即位したルイ13世は、シャルル9世と同じようにまだ子供、母や、宰相=首相リシュリューが政治を行った。リシュリューは、王権を強化して、貴族・平民・僧侶の意見を取り入れる制度である三部会を停止し、ユグノーや貴族たちの力を押さえ込んだ。
 ルイ13世自身は敬虔なカトリック信者だったが、ライバルのハプスブルク家に対抗するため、ドイツ=神聖ローマ帝国で起きた30年戦争に、プロテスタント側として介入することになった(1635)。

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