通信大学用ブログ

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カテゴリ:英語 > O.ヘンリー『The Last Leaf』



『The Last Leaf』by O.Henry ③

ある朝のこと、灰色のもじゃもじゃした眉をした、多忙な医者がスーを廊下に呼んだ。

「彼女が助かる見込みは、10にひとつでしょう」と医者は、体温計の水銀を振り下げながら、言った。「その見込みは、彼女が生きたいと思うことにあるんですよ。こんな風に、葬儀屋さんの側に整列をすることを人がしたら、どんな薬でも、馬鹿馬鹿しいものになってしまう。あなたのご友人のお嬢さんは、自分が良くならないと覚悟している。あの子が何か心にかけていることはあるだろうか?」

「あの子はいつか、ナポリマンの絵を書きたいと思っていました」とスーが言った。
「絵を描きたいだって?バカな!何かよく考えるだけの価値のあることは何か心にはないのかな?ーー例えば、男のこととか?」
「男ですって?」スーは、口琴、琵琶ボーン(jew's-harp)のような鼻声で言った。「男だなんて、そんな、先生、そういう話はありません。」

「それじゃぁ、それが弱点だな」医者が言った。「私は、科学ができることーー私の能力を通して滲み出る限りーー私の努力を通してできる限りーーは全てやるよ。だけれども、僕の患者が、自分の葬列に連なっている車の数を数え始めたならば、私は、病気に効くはずの薬の力から、50%を引くことになる。薬の効き目は半減になってしまうんだ。もしも、君がジョーンジーに、この冬にはどんな外套の袖が流行るのかというような質問をさせることができるなら、助かる見込みが10に一つから、5に一つに変わることを約束できるんだが」 



『The Last Leaf』by O.Henry ②

ずんぐりとした3階建てのレンガ造りの最上階ではスーとジョーンジーがアトリエを持っていた。
ジョーンジーとは、ジョアンナの愛称です。スーはメイン州(東北部、ニューイングランド内)の出身で、ジョーンジーはカリフォルニア州(西海岸)の出身でした。
スーとジョーンジーは8番街の『デルモニコの店』の定食で出会って、そして芸術とチコリのサラダとビショップスリーブの趣味がピッタリ合っているとわかって、だから共同のアトリエを持つことにしたのでした。
それは5月の事であった。

11月に入ると、冷たくて、目に見えないよそ者が、そのコロニーを歩き始めました。そのよそ者は、医者から肺炎と呼ばれていて、氷のような指で、そこかしこにいる人に、触れて行くのでした。
この東地区をこの破壊者は大股で歩き回り、何十人もの犠牲者を出していった。しかし彼の足取りは、狭くて苔むした『プレイス』の迷宮を通るときには、ゆっくりになった。

ミスター肺炎は、いわゆる騎士道精神に満ちた老紳士ではありませんでした。
カリフォルニアのそよ風でもって、薄くなってしまっている血液を持った小柄なご婦人は、血に塗れた手を持った息遣い荒い、年寄りのいかさま師の、到底獲物にはならなかった。
しかし、ミスター肺炎がジョーンジーを襲いました。その結果、ジョーンジーは床に伏すことになって、ほとんど動けなくなりました。自分の絵が描かれてある、鉄のベッドに横になったまま。小さなオランダ風の窓ガラスを通して、隣にある煉瓦造りの家の何もない壁を見ていることになった。 



『The Last Leaf』by O.Henry ①

『ワシントンスクエア』の西にある小さな地区では、道路がめちゃくちゃに入り組んでいて、『プレイス』と呼ばれる通りに、小さく別れていた。

これらの『プレイス』は不可思議な角度と曲線を描いていた。
一つの街路それ自体が1、2回交差していた。
ある画家がかつて、この通りには貴重な可能性があると見出した。
想像してください、取り立て屋が、絵の具や紙やキャンバスに対する請求書を持って、この道を通っているのだけれども、突然もとの所に戻ってきてしまった自分自身に出会うだろうということを、1セントも取り立てることができないままで。

それで、芸術家たちは間も無く、奇妙で古い、グリニッチヴィレッジへとやってきました。そして北向きの窓と18世紀の破風と、オランダ風の屋根裏部屋と、安い賃貸料を探してうろついていたのです。

やがて彼らは「白鑞性(シロメ)」のマグだとか、コンロ付き卓上鍋を1、2個、6番街から持ち込んで、芸術家村を形成することになりました。 

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