スペインとハプスブルク家の血を引くカルロス1世は、誰でも立候補可能な神聖ローマ帝国の選挙で勝ったので、スペイン国王カルロス1世&神聖ローマ皇帝カール5世と言う二つの称号を手にします。
 事実上スペインと神聖ローマに挟み撃ちになったフランスは、中東のオスマントルコに助けを求め、神聖ローマとのイタリア戦争をおっぱじめますが、スペインの全盛期がやってきます。

 カルロス1世の子フェリペ2世は、ヨーロッパキリスト諸国にとって脅威だったオスマン帝国に『レパントの海戦1571』で勝利します。この偉業によって無敵艦隊の名を称されたスペインは、調子付いて、フェリペ2世はポルトガルの王位を兼任し、トルデシリャス条約で決まっていたポルトガルのアジア利権=地球のもう半分をも支配し、「太陽の沈まぬ国」となります。
 ただこの栄光も、それほど長くは続きません。

 ガチガチのカトリックだったフェリペ2世はイギリスのメアリ1世と結婚してイギリスにカトリックを復活させますが、のちのエリザベス1世は1559年に統一法でイギリス国教会を確立させ、独自のカルヴァン主義路線になってゆきます。そして1588年、スペインの無敵艦隊とイギリスが激突します。『アマルダ海戦』です。ここで、イギリスがスペインを負かします。

 ちょっと遡ること、1581年。実はスペインの沈まぬ太陽は、ある小国の独立から陰りを見せていました。オランダです。時の首領はオラニエ公ウィレムと言う人です。オランダはもともとスペインの領地でしたが、ひどい重税に悩み、さらにカトリックのスペインに対して、オランダは商工業の発達したカルヴァン派、ゴイセンと呼ばれていました。ゴイセンとは、スペインで乞食を意味します。なぜ乞食かと言いますと、物資豊かなスペインに対して、オランダは商売好きな国とはいえ小粒。さらにユトレヒト同盟によってスペインから独立しようと企んでいたのは北部の7州のみで、南部の10州はスペインにとどまることを決めていました。南部はのちに、ベルギーとなるのですが。
 そんな貧しい独立派は、完全重装備で最新の武器を持ったスペイン兵に比して、桶を兜に漁猟用の銛(もり)を武器にして戦う始末です。ところが、スペイン軍を苦しめ休戦まで持ち込み、独立を達成してしまうんですね。
 もともとオランダの地形は、低地です。海よりも低いため、浸水などの被害にあった時は、あのハウステンボスにもある、水車で水を汲み取っていくんですね。そんな国。その地形を利用しようとした桶兜のユトレヒト兵は、知恵を絞って、スペイン軍を海岸線までおびき寄せます。自分たちは高い堤防に登って、あとは、ダムの原理と同じように、海の水を一気に放水したんですね。当然自分たちの街は水びたしですが、スペイン軍も一緒に流れてった。

 これがオランダ独立のハイライトになるのですが、このつまずきをきっかけに、スペインは衰亡していきます。一方のオランダはと言うと、17世紀前半に全盛期を迎えます。特に首都アムステルダムが繁栄するのですが、ダム作戦のおかげで栄えたオランダだからと言うわけではありませんが、アムステルダムは、「アムステル川」の「ダム」って意味なのね。
追記:このアムステルダムは、南部フランドルの北端アントウェルペンに変わって世界経済の中心となっていった。アントウェルペンは、中世以降、イギリスの毛織物製品の積出や大航海時代以降の新大陸からの銀、香辛料の集積によって、ポルトガルのリスボンと共に世界的な貿易港であったが、オランダ独立戦争に際して、アントウェルペンは1576年スペイン軍に略奪、85年には破壊され、商売好きなプロテスタントたちはアムステルダムに逃れていった。その後のアムステルダムは国際金融の中心地となった。